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宮本輝は、知っている。おいしいものも素敵な人も。

「約束の冬」(上)(下) 宮本輝
「10年後の12月5日、蜘蛛が空を飛ぶ場所であなたに結婚を申し込むつもりです」。
22歳の留美子が、見知らぬ少年に突然渡されたラブレター。
その直後に、父は、やっと理想の家を建てたのに旅先のドイツで事故死してしまう。
新しい家に住む気にならず、母も留美子も弟もそれぞれ、バラバラに暮らしていたが…
10年後。
留美子と母は、目黒にあるその家で暮らすことにする。人が住んだことがないのに
築10年の家…新人OLだった留美子は、32歳で働き盛りの税理士として一人前に、
弟は大企業を辞めて、吉野で木の専門家になるために頑張ろうとしている。
そして、父の書斎から10年ぶりに出てきた「ラブレター」。その差出人は、
意外と留美子の近くにいたのだった…

この物語「意外と近くにいたのだった」というパターンが多く、おそらく、素人の
投稿作だったら「偶然が多すぎます」と手厳しく批評されたことでしょう。
でも、留美子や、隣の家に住む会社社長上原、その友人たちの出会い、
不思議な縁、尋ね人がすぐに見つかって再会できる話、などの偶然ぶりは
「そんな巧くいくわけ、ほんとはないけどね」って思いながら、読んでいて
すごく心地よいのです。「あ、ばったり会っちゃったのねー」って感じで。
この小説は、それも含めて、ある意味大人のファンタジーなのかもしれません。
所謂ファンタジーだと、魔法や素敵なアイテムやかわいい妖精や動物、が
出てくるのが相場ですが、この物語には、その代わりにおいしい食べ物が沢山
出てきます。
留美子が上司に連れて行ってもらう銀座のカウンター和食屋さんでは、
すっぽん鍋、蕗ご飯、タコのふっくら煮、などが出てきて、デザートも
秘密めいていておいしそうだし、会社社長の上原の女友達・京都の料亭の
美人女将がいつでも送ってくれるあなごと鯖の棒寿司、上原が会いに行く
亡き妻が自分の前に結婚していた男の父親…妻のもと舅の暮らす家で
ご馳走になる白菜と豆腐だけの滋味あふれる味噌汁。中華街で華僑の
ゴルフ仲間に勧められる点心類。社長の上原がこういうごちそうづくしの中に
いるのはわかりますが、留美子が小樽の親友のところに行って、一生分かも、
と思いつつ浜辺でとれたてのあわびやシャコ、ウニなんかを食べまくる場面
(適当にそのへんの海産物を切り刻んで丼にのせて食べる地元の青年の
描写とか最高においしそうでした)もすごくおいしそうでした。なので、
くいしんぼうの人だったら、それだけで十分に満足できる小説だと思います。
そして、32歳という同年代の留美子が、7歳年下のラブレターの主と再会して
ゆっくりとしたペースですすむ恋愛も、軽くなくていい感じ。
そして、宮本文学に出てくる、知的で洗練されて、でも愛嬌のある素敵な人たちも
沢山出てきます。
上原が慕う妻のもと舅、とか、哲学を持っている立派な華僑の男、
お茶目でかわいいけどしっかりした経営者のおかみ、病気から蘇った
留美子の親友、37歳にして立派な経営哲学を持つ留美子の上司(なんか
橋下弁護士をイメージして読んでしまいました(笑))など、素敵な大人たちが
説教くさくない説教を次々としてくれるので、賢くなった気もして、読んでいる間、
幸せでした。

宮本輝さんのプロフィールを拝見すると、広告社でコピーライターとして
お勤めされてたこともあるそうです。確かに、会社員経験があるんだろうな、と
社長の上原が、有望な若手社員たちの人事を考えつつ彼らのことを評価してる
場面を読んで確信しました。

みんな若いが、人のふるまいというものを知っている。人にはそれぞれ
事情があるということをわきまえている。そしていざというときの
度胸が良くて、自分の専門分野のこと以外についても勉強熱心で、
そこはかとなく愛嬌がある…。


こういう人たちと働けるだけで幸せなことだと思うし、自分も、仕事に限らず、
そういう人間になりたいなーって思いました。
でもふと思ったのは、私がお邪魔させていただいているブログの皆さんって
みんな、この宮本さんが書いている人間像にどこか重なるところがあるなーって。
そして、この方にも…(笑)。

あとがきによると、作者の宮本さんは、この小説を、日本のおとなが幼稚化
していて、今の若者はいかなる人間を規範として成長していけばいいのか…と
考えて、このような人が自分の近くにいてくれればと思える人物だけをばらまいて
書かれたそうです。確かに、憧れてしまう人たちが沢山出てきます。
浅田次郎さんの小説は「生きなくちゃ!」と前を向かせる力があるのですが
宮本輝さんの小説には「いま、生きてる!」という自分の立ち位置を思い出させる力が
あります。やっぱり、生と死についての考え方にブレがないから、堂々と書ききる
ことができるんでしょうね。そういう意味では、久々の宮本文学らしい小説だと
思いました(最近、あれ?って個人的に合わないのが数作続いてたので)。
by tohko_h | 2006-07-05 22:49 | reading