不器用は度を越すと醜いのは承知の上だ。

柴田翔のこの前読んだ小説「贈る言葉」の中の、主人公の男が
やがて付き合うことになる女の子を友達の家で見かけて、
一緒にちょっとゲームとかして遊んだシーンあたりの描写を読むと、
そのブザマさが、若いときの自分まんまで凹みつつ、ここまで
最初からわかってくれる男子がいて彼女はいいなあ、と思った。

実際、君は、不器用だった。君が、その日のお遊びを楽しんで
いなかったと言うのではない。君には、意外と単純がりたがるところがあって、
そういう他愛のない遊びにも、顔を赤くし、ケラケラ笑って嬉しがる。
だが、はたから見ていているとすぐにわかるのだが、君のそうした遊びには、
いつも、どこか、意識的なところがついてまわる。本当に嬉しがっている
のではなく、嬉しがろうと思って嬉しがっているところが見えてしまう。

例えば、へまは誰だってやる。あの日だってみんなへまをした(中略)。
(他の人たちなら)へまをしても、へまをそのままにして楽しんでしまうのに、
君は一度へまをすると、余計ケラケラ笑いながら、その実ひどくへどもど
してしまって、そのへまが、ただ単純なへまなのではなく、君の心の底に
あって表面の陽気さによってはけして溶けない堅い意識の露呈なのだと
いうことをみんなに気づかせてしまう。

そうした君の精神の不器用さは、へまをした時に限らず、君の動作の
至るところに、例えば手をひとつ挙げるにしても、はっきりと現れた。
君が手を挙げるときの思い切りの悪さ、あるいは逆に、とてつもない
唐突さ、更にそれに伴う曖昧な笑いと言ったようなことは、君が、
陽気なお遊びの最中も、そのお遊びとは無縁な、何か重苦しい思念に
心を動揺させているのだということを露わにしてしまっていた(中略)。

ぼくは、君のそうした、時折は殆ど醜いとさえ言える不器用さから、
何故か眼が離せなくなってしまった。


醜さ込みでくぎづけなんてこの男の人マニアかよ!と思いつつ
羨ましい。

例えば。
仕事で失敗してへどもどしてるときなんか、自分のブザマさに泣きたくて
半日くらい失敗したことばかり考えちゃうんだけど…しかもその失敗が
上司をうっかり「お母さん」って呼んじゃうとかそういう痛くはないけど
イタいレベルのときほど。

もっというと、中学、高校時代の大失敗した告白の一言一句を思い出して
当時の自分のブザマさをどうしたものかとどうしようもなく思う夜もある。

カラオケで音程がはずれたとか、ボーリングでしくじった、とか
ゲームで「へま」をしたときも、もちろん、凄く落ち込んでいて、
周りの楽しい空気との温度差がヤバすぎて怖くなることもあった。

しかし、たまに訳知り顔の微妙な距離の人に「要領悪いのはわかってるから」
みたいに言われると、それはそれでムッとするのだ。

難しいなー。

しかし、柴田翔さんは、短い文章の中で「へま、へま」言い過ぎだとは思うけど
人物描写がすばらしいと思った。
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by tohko_h | 2007-08-26 23:48 | drops of my days