「乱反射」 貫井徳郎
2009年 03月 27日「乱反射」
貫井徳郎
あらすじを説明するのが
ちょっと難しいかもしれない。
これから始まる話がどんな
ものなのかを律儀に読者に
提示してくれる序章を一部
とりあえず引用してみる。
これは、あるひとりの幼児の死を巡る物語である。(中略)
一見不運な事故にしか見えない幼児の死は、実は殺人だった。
それも大勢の人間が寄ってたかって無辜の幼児を殺したという、
異常極まりない事件であった。(中略)犯人たちは今日も、
己が死に追いやった幼児のことなど忘れ果て、平凡な日常を
生きている。
この物語は、のちに被害者となる幼児の父親が覚えた、
ある小さな罪悪感から始まる。
小説は、-(マイナス)44章から始まる。
そして、-43、42、41…と進んでいき、0章で幼児が死ぬ
痛ましい事件が描かれる。そして、そこから、1章、2章、3章、と
事件のあとの物語が最終章まで続く。
つまり、「事件」以前の日常が描かれているのがマイナスの章。
事件が起こるのがゼロ章。
事件のあとに関係者たちがたどる道が、プラスの章。
という、あんまり見かけないちょっと変わった構成。
事件以前、のマイナスの章で描かれるのは、どこにでもいそうな
人たちの日常のちょっとしたいらだちや手抜き、ちょっとした
自分勝手な行いである。体の弱い大学生の男の子は、
病院で長時間待つのがイヤでわざと真夜中の救急病院に行き
簡単に薬を処方してもらうというズルをしている。犬を飼う老人は
かがんで拾うのが面倒という理由で散歩の途中でふんを拾わない…
そんな「よくないのは分かってるけど、自分だけなら大丈夫だよな。
誰にもばれなければいいよね」というちょっとしたズルを重ねる人たち。
先日の飲み会でも話に出た「スーパーで買うのをやめたお肉を
引き返して戻すのがかったるいから、近場のちょっとした棚に乗せちゃう」的な
「モラルからいったらだめだけど犯罪じゃないからよしとしましょう」というあれこれ。
そういう「ちょっとした悪いこと」がドミノ倒しのように折り重なって、ゴールの
悲劇に向かって疾走していく。負のわらしべ長者状態というか。
序章を読んでいるので、「ああ、もうすぐ事件が起こるんだろうな。
子供が死ぬんだな」というのは見当がついてるんだけど、
出てくるセコい人たちの小物っぷりがひとの生き死ににつながるようには
到底思えないので、ゼロ章のところに来て、いろいろな意味でびっくりする。
その後、被害者の父親が、息子の死の原因を知りたくて、納得したくて、
彼らのことを逆にたどっていく道筋。これが、普通の殺意をもった殺人犯相手なら
憎み、恨み、復讐する、と、やりたいことは明確になると思うのだけど、
罪の意識がなく、個別には殺人とはほど遠いことしかしていない関係者たちに
父親の苛立ちが募ってくる。
たいていの推理小説の犯人のように、殺そうとして殺した、みたいな場合だと、
読んでいる側は、「自分はこんなことは絶対にしない」と思い、犯人の
行為を信じがたいものとしてとらえるだろう。テレビの殺人事件の報道を
見ているときもおそらくそうだろうし。
…それに対し、この小説のいやなところは、ここに出てくる、ちょっとズルをした
セコい関係者のことは、殺人犯と違って、まったく自分とは無縁の人たちとは
思えない点にある。殺人犯についてはまったくの他人ごととして、フィクションの
世界の人として読めるけれど、犬のフンを拾わずに逃げる老人とか、車の
車庫入れがいやで逃避しようとするOLとか、「おれ内科は専門外だから、
急患が来たらやだな」と思ってる医者とか、彼らが持っている「よくない何か」は
自分の中にある、堂々とできない、ちょっとしたセコい部分と通じるところがあるので。
そんな「ちょっとした手抜きやずるや逃避的行動」が、人の死につながり得る
(かなり強引につなげた感もあるストーリーではあるものの)と考えて
ちょっと読み終えたあとに気分が悪くなった。この胸糞の悪さこそが、作者が
意図したところなんじゃないだろうか。
もちろん「みんな公明正大にいい子になろうね」ってことじゃなくて、皮肉な
因果関係で自分の人生が知らないところで人に迷惑を掛けたり生命の危機に
さらすこともありえるんだよ。知らないところで自分が人の人生を壊すことも
ありえるんだ、というホラー的な感じ。化けものは出てこないけど不気味な小説です。
余談ですが、写真だとあんまり似てないけど書店で見ると、装丁が
これとかぶるんだよなぁ、イメージ的に。こっちは、人生の負のスパイラルを
滝を泳いで登るみたいに力強く強引に手段を選ばずにひっくり返そうとする
お話だったけど。